原麻里子 アナウンサー、社会人類学者、慶大講師、元テレビ朝日アナウンサー、元BBCワールドサービスプロデューサー、ケンブリッジ大学院論文修士 info@haramariko.com twitter id @haramariko
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ケンブリッジは大学町


 ケンブリッジはロンドン北東部約100キロにある大学町である。英国人はローマ人が定着した街を大変自慢にする。ケンブリッジも、AD70年から5世紀初めまで、ローマ人が住み着いた。ケンブリッジは重要な交通の要で市場があった。ローマ人の後は、アングル(アングロサクソン)人、デーン人、ノルマン人が移住してきた。そして、1109年、ケンブリッジは16マイル(約26キロ)離れたイーリー司教の管轄下に置かれ、1200年までに商業の中心地になっていた。

ロンドンのキングス・クロス駅からケンブリッジ駅まではノンストップの急行で1時間弱。シティのリバプール・ストリート駅からも列車が出ているが、急行で1時間20-30分位である。ロンドンの通勤圏内ともいえるので、ロンドンへ通勤する人もいる。車ではロンドンからM25かM11 で1時間30分である。

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ケンブリッジは大学町でありキャンパスはない。ある特定の建物や区域が大学というのではなく、大学の施設は街中に散在して、大学と街の間には境界がない。ケンブリッジは、あふれる 樹木に大きな公園があり、そこでは、牛がのんびり草をはみ、カレッジの庭には芝生やテニスコートがある美しいところである。

b0048021_21523684.jpg   英国の建築には、グリーク、ローマン、ゴシック、ネオクラシカル、テューダー、ビクトリアン、ジョージアンなど様々な様式があり、建築の流行が何度も変わってきた。しかし、ケンブリッジのカレッジの建物は何世紀間に渡って次々に建てられたので、様々なスタイルが混在している。建物のデザインに統一性はないが、英国人はこうした方法こそが継続性を示すものであり、伝統があって格が高いと考えるようである。しかも、英国人は新しいものが好きな上に美しさに囚われてはいけないと思っているということもあり、デザインが醜くともかまわまず、新しいスタイルの建物を建てる。例えば、歴史学部の図書館はピラミッドのようなガラス張りの天井を有する建物である。しかし、私が留学中には、そのガラスの外側の屋根の掃除をすることが出来ずに、その掃除案を募っているとも聞いた。

学部や学科・研究所の建物は現代のものが多く、所謂歴史があって荘厳・素晴らしいとはいうようなものではない。私は自らが所属した社会人類学科を初めて訪れたとき、これが世界に冠たるケンブリッジの社会人類学科かと思うほど、建物の小さな一角を占めているだけであった。

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       (社会人類学科の建物前で同級生と)

写真でよく見られるケンブリッジの荘厳な建築の多くはカレッジ所有である。美しい建物と醜悪な建物が入り混じっているのがケンブリッジである。しかし、どのカレッジも工事をしているのが常というのは不思議である。カレッジが、建物を修理する際には、日本のように、予算を組んで大修繕するのではなく、継続的に少しずつする。従って、古いカレッジはいつも工事中ということになる。

尚、ケンブリッジ大学の学長はエリザべス女王の夫君であるエディンバラ公、ヴァイス・チャンセラー(Vice Chancellor)と呼ばれる副学長はアリソン・リチャード博士(Dr. Alison Richard)で、彼女が実質的な学長である。

無断転載を禁じます。 原 麻里子

by anthropologist | 2007-07-28 11:03 | ケンブリッジ大学

陣内やすこ議員の八王子市議会レポート

 7月27日、論文のための調査中にお目にかかった八王子市議会の陣内やすこ議員から『八王子市議会レポート』No.29(2007年7月20日)を送って頂きました。陣内議員は無所属市民派の議員です。

 陣内議員は自治体議会改革フォーラムの公約「自由に討議する議会、市民も参加できる議会、透明性のある議会」を目指すと書いているだけあり、このリポートは読み手が市政に参加できるという気持ちを持たせるように、実に、バランスよく、よく出来ているなと思いました。

 今、参議院議員選挙が大変話題になっていますが、それでも、私の周りの女性の中には「自分の一票で政治は変わるの?」という人がいます。マスメディアで一票の重要さを強く訴えても、人々の心には届かないのかしらと、女性の政治参画を進めるためにはどうしたら良いのかという問題を考えている私はがっかりしてしまいます。そして、選挙のときだけではなく、普段から、人々の政治参画への意識を向上させることを考える必要があるのだと痛感しています。

 この陣内やす子議員のリポートは、そうした人たちへの政治参画教育も押し付けがましくなく行っているようです。勿論、陣内議員が無所属で党に所属していないので、党の方針に従わなくてはいけないということはないということもあるでしょう。

 都心区の住民である私には多摩地区は市民運動が盛んという印象が強いです。これまで、私の地元の区議からもこの種の区議会報告が私にも送られてきましたが、それに比べると、いかにも、多摩地区らしい議会レポートとも思いました。

by anthropologist | 2007-07-27 20:53 | 女性と政治

ロンドン南部に「ブルガリア人の溜まり場」をつくったBBCのテオ叔父さん

 マルコフ毒殺事件の話をするならば、私はテオことトドール・リルコフ氏について語らないわけにはいかない。アナベル・マルコフ夫人は、「マルコフが攻撃を受けたあと、BBCに出社したが、そのとき、一番最初にマルコフが会ったのがテオだ」と話した。そして、アナベルは私たちにテオに会って話を聞くように勧めてくれ、その場で電話をしてくれた。テオの家はマルコフの家から歩いて2-3分の距離にあった。1989年の晩秋のことであった。

 私たちはテオのフラットに訪ねた。ほとんど何も物がない部屋に古い洋服ダンスと古いソファが置いてあり、部屋の隅にはビールが積んであった。彼は昼間からウィスキーのビール割を飲み、取材に訪ねた私たちにアルコールを勧めた。

 当時、ブルガリアは共産主義政権下にあったので、当然の如く、初めは、彼は大変怪訝そうで、「マルコフの何について知りたいのだ」といっていた。そして、マルコフの死亡を掲載した古い黄色く変色した新聞記事の切抜きを見せてくれた。しかし、訪ねてきたのが若い東洋人2人で諜報機関とは関係がないと思ったこともあるのであろう。彼はだんだん打ち解けて、初対面の私たちに、非常にレンドリーで、フランクに話をしてくれた。

 私が帰国後、クリスマスカードを出すと、「ナスのお料理をご馳走するから、遊びに来い」などと、BBCで働くブルガリア人の共通の友人を通して何回も誘ってくれたのに、それを実現できずにいた。2002年3月、テオは77歳で亡くなった。彼の訃報を耳にし、再訪を果たせなかった私は本当に後悔した。彼は一回会っただけの人も魅了してしまうチャーミングな人であった。
彼の人となりは、アナベル・マルコフ夫人が、日刊紙「ガーディアン」に、「ロンドン南部にあるブルガリア人の溜まり場の創立者」というタイトルのリュコフの死亡記事で、美しく、ウィットに富んで書いている。

―リルコフは、恐らく、ロンドンにいる全てのブルガリア人に知られていた。クラッパムにある「テオ叔父さん」の家は、いつも空いていて、豆のスープで有名で、そこに滞在した人は決して滞在費を払わず、フラットは修理されていないので、ぼろかった。でも、テオは多くの淋しい移民たちに新しい人生をスタートするための本物の希望を与えた。

 テオは美しいブルガリア語は勿論のこと、英語など3つの外国語を話し料理が大変上手であった。テオは、長年、BBCワールド・サービスのブルガリア語部で働いていた。テオの人生に関する話は伝説的だ。

 彼はブルガリア南東部ブルガス州の街マルコ・タルノヴォ(Malko Tarnovo)に生まれた。マルコ・タルノヴォはウストランジャ山脈の北麓、トルコとの国境近くにあたる。父親は建築資材を供給するビジネスを経営していた。彼は中等学校で勉強したが、時々、聖職者になると言っていた。第二次世界大戦中、テオは連合軍側で戦い負傷した。

 戦後、ブルガリアが共産主義化されたのに伴い、テオはトルコ国境を越えて、ブルガリアから逃げてきた。その結果、彼の家族は家とビジネスを失い、マルコ・タルノヴォを去るように強いられた。長い間、彼の家族は彼が死んだと思っていた。

 テオはトルコ、ギリシア、イタリアの収容所で暮らし、1950年代にオーストラリアへ移民した。そこで、彼はダム建設を助けるプロジェクトで働いたが、交通事故にあってしまう。テオの言葉によれば、「バスが止まらず、私の脚を引っ掛けた」という。テオは右膝から下を失い、補償金を受け取った。60年代初め、彼はそのお金を持って、新しく獲得したオーストラリアパスポートを手にして、ロンドンへ来て家を買った。マルコフ婦人は、これは彼が人生において下した最も賢いお金の使い方であったという。

 その後、ロンドンで、テオはブルガリア移民グループのまさに中心であった。彼のお陰で、彼が住んでいたクラッパムは「ブルガリア人の溜まり場」になった。―

無断転載を禁じます。 原 麻里子

by anthropologist | 2007-07-25 09:36 | BBC

マルコフ(BBCプロデューサー)毒殺事件2


 「ゲオルギー・マルコフ殺害事件ーブルガリア前共産党政権批判勢力のシンボル」については先日のブログに論文「BBCワールド・サービス」(『ソフィア』)からの抜粋を掲載したが、これは論文に掲載出来なかった部分である。

 ブッシュハウス(BBCワールド・サービス)では東側の反体制派の知識人は数多く働いていたが、その中では、ブルガリア語放送で働いていたジョージ(ゲオルギー)・マルコフ(Georgi Markov)が最も有名であろう。

 マルコフはブルガリアにいた頃は著名な劇作家・小説家であったが、1969年に西側に亡命し、ロンドンに移ってからは、BBCワールド・サービスのブルガリア語放送のみならず、自由ヨーロッパやドイツの放送局のために働いていた。これらの放送の中で、彼はブルガリアの共産党政権を強く批判していた

 マルコフは、特に、当時の指導者であるトドロフ・ジフコフ共産党書記長 の政治を独裁的だと厳しく批判し、マルコフの放送はブルガリアにおける反体制派の活動を鼓舞するものとみなされていた。1970年代に、ジフコフ書記長は閣議会でマルコフのラジオ報道を黙らせたいと語ったといわれる。

 1978年9月7日、マルコフはロンドンのウォータールー・ブリッジのバス停でバスを待っているとき、傘に仕込まれていたリチンを体内に打ち込まれ死亡した。49歳であった。マルコフは、傘が脚に触れたとき、突然、右脚の後ろに激痛が走ったが、オフィスへ夜勤に出かけたという。

 その前に、マルコフに匿名の電話があり、マルコフに毒を盛ると言われていた。そのため、彼は飲食は親しい友人と一緒の時にしかしなかった。しかし、マルコフは傘が身体にぶつかるといったような些細な偶然には、ほとんど気を使わず、そのまま仕事をして帰宅した。翌日夜までに、マルコフは高熱を出し、3日後に亡くなった。

 1989年、私はワールドサービスで働いていた経験を持つ英国人の妻アナベルを訪ねた。ロンドン南部のクラッパムのミドルクラスの住宅街にマルコフ夫人であるアナベルは住んでいた。二人が出会ったのはBBCで二人の間には娘のサーシャがいた。

 マルコフ夫人によると、事件の翌日、職場から戻ったマルコフは、いつもどおり、家族3人で夕食をとった。しかし、食事中、マルコフは気分が悪くなったといって席を立とうとしたが、その場に倒れてしまった。彼は高熱が続き容態は良くならなかったので、翌日、妻はマルコフを病院へ連れて行った。マルコフは急性敗血症と診断され、治療を受けたたものの、病状は好転しなかった。熱は下がらず、血圧は低下、白血球は著しく増加。医師たちには、彼の症状は原因不明であった。自然死に見えたという。

 その後、マルコフ婦人に紹介され、マルコフが薬を体内に注射されて出勤したときに、最初にオフィスでマルコフに会ったテオ・リュコフにインタビューした。二人の家は徒歩で3分位の距離にあり、日頃から、きわめて親しい関係であった。リュコフによると、マルコフは出勤したとき、脚が痛いといっていたという。そして、その事件を記した小さく折りたたんだ赤茶けた新聞記事の切抜きを見せてくれた。(リュコフはブルガリアから亡命してきた人々にとっては、シンボル的存在であり、また、いつか、彼のことについてブログに掲載する。)

 彼の死について調査した病理学者はリチンはすぐに消えてなくなり、病院で調べたときは、リチンによる死は自然死に見えるという。何週間も調査したあと、検視官はマルコフは「非合法的に殺害された」と結論付けた。これはKGBとブルガリアの秘密警察の仕業であると広く信じられてきたが、犯人はだれか分っていなかった。

 マルコフの死と前後して、ブルガリア国営放送の元ラジオ編集者ウラディミール・コストフ氏がパリの地下鉄から出てきたところ、同様のリチン弾丸を発射された。しかし、彼は厚手のウールのカーディガンを着ていたお陰で、毒は彼の皮膚に深く入ることはなく、彼は生き延びた。

1989年に、ブルガリアで共産党政権が倒れた後、大量の改造した傘が内務省で発見された。

無断転載を禁じます。  原 麻里子

by anthropologist | 2007-07-24 10:13 | BBC

ケンブリッジ大学ー講義中の学生たち


 社会人類学科では、講義中、教員は文献を引用する際には、ここが引用部分であると明確に示す。例えば、[Smith 2002: 48]というように読み上げる。そして、教員によっては、引用文を語るときは、両手を挙げて、人差指と中指を振って、引用文を明確に示していた。学生達は手元にあるリーディングリストを見れば、Smithが 2002年に書いた本か論文の 48ページから引用された文とわかる。予め用意してきたペーパーを読み上げるというような授業をする教員もいた。

 授業を受ける英国人の学生たちは講義内容を完結したセンテンスでノートに書く。日本では、小学生の時に、授業内容を文章でノートを取るのはよくないと習う。ノートを簡潔に上手くまとめるのが頭のよい証拠とされていたが、それとは全く異なる。

 英国の大学教育に関しては、エッセイ、スーパービジョン、プレゼンテーションのみならず、こうした授業のやり方、学生達のノートの取り方からも、教育のあり方の一端がわかる。

  試験の話は別記したが、英国では学生たちはエッセイやセミナールで自分なりのエッセイやペーパーを書くので、講義ノートを丸暗記して、テストを受けるということにはならない。また、それでは、評価が低くなる。

 ところで、9時から始まる1時間目の講義中、私は女子学生がリンゴを齧りながらノートを取っている姿を時々見かけた。社会人類学の2年次以降の授業は、ほぼ全てがセミナールームで行われるが、その部屋は机を置くと、窓辺に座ったりしても、50人位しか座れない。そこでのことである。英国の自由な気風が感じられる。

 私は社会人類学のような文化相対主義的な考え方をする学科だから、古い規範から外れた行動をとる学生も寛容に受け入れられたのかもしれないと思い、他の学部に留学していた人たちにも訊いてみたが、同様なようであった。ただ、古典学を学んだ友人は、講義中にリンゴを齧りながら講義を聴いている学生を見たことはないと云っていた。英国では歴史的に理想的道徳的人間の育成に欠かせないとされてきた古典学を勉強する学生たちだけのことはあるのかもしれない。

 とにかく、授業中、内職や私語をする学生は皆無であった。また、エスケープする学生もいない。勿論、日本のように、授業中、化粧をしている女子学生は皆無。教員が学生の出席を取ることは全くなかった。

無断転載を禁じます。 原 麻里子

by anthropologist | 2007-07-23 15:29 | ケンブリッジ大学

ケンブリッジ大学の教育 セミナー

 ケンブリッジ大学の文化系の学部では、午前中に講義が行われ、午後にセミナーやスーパービジョンが行われる。昼食後、学生たちはセミナーに出席したりスーパービジョンを受けたりする。

 英国の大学では学生たちは1年次から専門科目を本格的に勉強することになっている。英国では学問は方法を学ぶことであって、知識を集めることではないとされているので、数少ないことを深く学ぶ。そして、学生に問題の発見と解決、論理的に論評する力を養成することを目的にしている。その際、特に重要な役割を果たすのが、セミナーとスーパービジョンとエッセイを書くという能動的な学問である。

 ここでは、M,Philのセミナーの例を挙げよう。まず、最初の時間に学生たちにプレゼンテーションの担当が割り振られる。学生たちはセミナーのシラバスに書かれている問題の中から、各自がなるべく興味のあるものを1問選ぶ。

 学生は与えられた質問について調べ、解答を用意する。重要なことは、各自が何かについてまとめるというのではなく、質問に対して答えるという形で文章にし、それを読み上げる形で発表を行う。自分の考えを文章にまとめることによって、言葉の定義から文の構成といった論理・修辞の訓練、そして、発表者のその問題に対する態度を明らかにすることにもなる。従って、日本のようなグループ発表はなく、すべてが個人発表である。


無断転載を禁じます。 原 麻里子

by anthropologist | 2007-07-22 11:13 | ケンブリッジ大学

Cambride Express


Cambride Express に、ケンブリッジ在住30年の写真家志村博さんの写真が掲載されています。ケンブリッジ大学の写真も沢山あります!
http://diary.jp.aol.com/ffzuhxwpubbf/

by anthropologist | 2007-07-20 11:01 | ケンブリッジ大学

BBC時代の元同僚 毎日放送伊東正治元アナ

 
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   (BBC ワールド・サービス 日本語部の部屋で)



インターネットをサーフィンしていたら、私と同時期に、大阪の毎日放送からBBCワールド・サービスに派遣されていた 元アナウンサー伊東正治さんの英国に関するブログ「やっぱりイギリスが好き!英国想い出スケッチ」にBBCのことを書いていらっしゃることを発見しました。伊東正治さんは、今は、ラジオ局編成部長だそうです。

http://www.mbs.jp/announcer/meikan/ana_9/200107.html

by anthropologist | 2007-07-20 08:16 | BBC

マルコフ毒殺事件ー英国の有名な未解決の殺人事件


 今、英国とロシアは、ロシアの元情報将校リトビネンコ氏の毒殺事件を巡って、外交官を国外追放にするというという緊張関係が深刻化している。これはBBCのブルガリア放送のプロデューサーマルコフ氏殺人事件を思い起こさせる。マルコフ氏は東側諜報機関によって毒殺されたといわれていた。スパイ小説さながらの事件であった。

ゲオルギ・マルコフーブルガリア前共産党政権批判勢力のシンボル

ブッシュ・ハウスでは東側の反体制派の知識人は数多く働いていたが、その中では、ブルガリア語放送のスタッフであったゲオルギ・マルコフが最も有名であろう。

 マルコフはブルガリア時代は著名な劇作家・小説家であったが、一九六九年に西側に亡命。ロンドン移住後は、ワールド・サービスのブルガリア語放送のみならず、自由ヨーロッパやドイツの放送局のために働いていた。マルコフは放送の中でブルガリアの共産党政権を強く非難し、特に、当時のトドル・ジフコフ国家評議会議長の政治を独裁的と厳しく批判した。マルコフの放送はブルガリアにおける反体制派の活動を鼓舞するものとみなされていた。一九七〇年代に、
ジフコフ議長は国家評議会でマルコフのラジオ放送を中止させたいと語ったといわれる。

一九七八年九月七日、マルコフはロンドンのウォータールー・ブリッジのバス停でバスを待っているとき、傘に仕込まれていた毒薬リチンを体内に打ち込まれ、死亡した。四九歳であった。
彼の死について調査した検視官はマルコフは「非合法的に殺害された」と結論付けた。これは、KGBとブルガリアの秘密警察の仕業であると広く信じられてきたが、犯人は不明であった。一九八九年、共産党政権崩壊後、ブルガリア内務省で大量の改造した傘が発見された。

 一九八九年晩秋、私はマルコフ関連番組制作のため、英国人の妻アナベル・マルコフ夫人を訪ねた。かつて、BBCのスタッフであったアナベルは、ロンドン南郊クラッパムのミドルクラスの住宅街に、二人の愛娘サーシャと住んでいた。

 アナベルは、マルコフが攻撃された九月七日はジフコフ議長の誕生日であり、二日後のブルガリア共産党政権樹立記念日にマルコフが死ぬことが意図されていたが、マルコフは、それよりは少し長く生き、殺害者の意向を挫いたと話した。九月十一日、マルコフは亡くなった。

 一九九八年九月、マルコフの死後二〇周年にあたり、当時のブルガリアのストヤノフ大統領は、BBCに対し、マルコフの暗殺は前共産主義政権時代の最も暗い事件であると語った。そして、ストヤノフ元大統領は、ブルガリアの元秘密警察が証拠を隠滅したとしても、ブルガリア当局はこの事件の捜査を続けると述べた。 しかし、マルコフの死に関するファイルは大量に処分され、また、それに関与した人は自殺していた。二〇〇〇年に、ブルガリアでは、この事件の捜査は打ち切られた。

 これは、英国の最も有名な未解決の殺人事件であったが、その容疑者が浮かび上がってきた。二〇〇五年五月六日の「サンデータイムズ」によると、ブルガリアの日刊紙(Dnevnik)が、秘密警察のファイルの内容をリークし、マルコフ殺害の容疑者を割り出した。 ソフィア在住のジャーナリストが六年かけた調査で発見した書類によれば、共産党時代、ブルガリア秘密警察がイタリア生まれのデンマーク人エージェントにマルコフ殺害を命じたという。これは、ジフコフ議長が正式に許可した政治的暗殺の一つであった。 このリークを受けて、スコットランドヤードは「入手可能な新しい情報」を調査中であると発表した。

 今でも、マルコフはブルガリア人にとっては、前共産党政権を批判する人たちのシンボルであり続けている。

原 麻里子 「BBCワールド・サービス」(『ソフィア』第54巻第2号) 2005年夏季号 pp.213-15 無断転載を禁じます。

by anthropologist | 2007-07-19 16:07 | BBC

ケンブリッジ大学詣で

 ケンブリッジ大学は国際的知識システムの中核に位置している。研究者たちは高度な研究や「再研修」を行うために中心大学に移動する傾向がある。だから、リサーチ・ディグリーを取得した人たちは、海外に在住していても、「ケンブリッジ詣で」といえるほど、大学に帰ってくる。特に、一度、ケンブリッジへ訪問研究員としてきた日本人の先生方は毎夏のようにケンブリッジへ帰って来る。

 ケンブリッジへ行けば、街、図書館、学部、カレッジで、昔の仲間に必ず会う。学問の世界に進んだ人たちにとって、ケンブリッジは巡礼の地であるようだ。ケンブリッジには人と人の接触があり、アイディアの交流があり、知的刺激がある。世界中から研究者たちが自分の新しい発見・知見を持って集まって来る。ここで、彼らは情報を交換し、新しい知見を作って帰っていく。

 ケンブリッジ大学は国際的な知のネットワークの中心的存在として機能するために、卒業生のために、学問的・知的インフラストラクチャー(図書館、学術出版社、実験室など)を整え、使用可能にしている。ケンブリッジから学位を取得した人たちは大学図書館から1回に10冊の本を8週間借りる権利がある。そして、休暇中ならば、カレッジの開いた部屋に泊まり研究に励むことが出来る。ウルフソン・カレッジでは学期中に2回フォーマルホールで食事が出来る。
 
 ケンブリッジは卒業生達が大学に戻ってきた時、リサーチをしやすい環境を整えることで、全世界から情報が集まって来るようなシステムを創るのがうまい。ケンブリッジ大学は知のネットワークの中心的存在として機能するめのサービスは怠らないようだ。

無断転載を禁じます。 原 麻里子

by anthropologist | 2007-07-17 16:12 | ケンブリッジ大学